昭和45年1月20日 夜 御神誡
御神誡
「まめな時家業をおろそかにし物毎におごること」
「まめな時家業をおろそかにし物毎におごること」と。この事は、神様の、お~お御苦労に沿わない事であると同時に、御無礼な事だと思います。昨日私はあの~、ん~まめな時と言うが、え~健康でない時に、いい~、家業をおろそかに、まあいたしますけれど、その時もやはりこれは、ん~御無礼になる事だと言う事だと思わないけんと思いますね。
え、あれはもう、風邪ひいとるけんあたりまえ、具合悪いから仕方が無い、(せき)その事も私はやはり、え~御無礼になる事だと、え~いう事をですね、今日、これはもう徹底した、あ~、お道の信心の、お~、頂き方から、そういう風に、私は、なると思うんですよ。例えば、「お蔭を頂きました」と、「頂きました」と言う事を、私共はたくさん使います、「風邪をひかせて頂きました」と、「こうさせて頂きました」と、だからその、頂いたのですからね、やはりそこにはその、頂いた物に対する「御礼」というものが、必ずとものうておるほどしの、「頂きます」でなかなければ、「頂きました、頂きました」ならんと私は思うのです。ね。「風邪をひかせて頂きました」と、もう頂いたんだったら、絶対家業を、家業を、を、お、お、やめなければならない事はない。と私は信じます。
けども口には、「風邪をひかせて頂きました」と言いながら、ここんとこを頂いてないから、熱かなならんのだ、と、これはもう徹底したお道の信心の、お~、頂き方から言うとそういう事になるんです。今朝の御理解に、私御祈念中に「イデオロギー」という事を頂いた。んぇ~、私意味は解かりませんから、その事を、お~、どういう事か解りませんけれども、あ~ん、教典を頂かせて頂きましたら、あ~「まめで家業を勤めよ、君のためなり国のためなり」というあの御教えを頂いたんですね。「まめで家業を勤めよ」という事は、そのままが君のためであり、国のためだと、言う、まあ、一番現在の、教典の中から、あ~説きにくい御教えだと思うんですよね、「君のため」とか、「国のため」とか、いわゆる忠君愛国的な、ふんいだけ頂いたら、非常にまあ現代の人は通じないような、響きが、響きを持った教典ですけれども、今日の、今朝の御理解を頂いておるとですね、その、やはり、い~~、え~「イデオロギー」をあのような風にして説いて下さってあるんだなぁ」という事を、私「イデオロギー」という事が分からんから、御理解すんで、高橋さんに、聞かせてもらったら、「主義、主張」だという風に答えられました。だからどんなに主義が素晴らしかっても、主張しておる事が、立派であってもですね、え~、信心をぬきにしたそれは、もう、お~空論にしかすぎない、それはもう「絶対に幸せにつながる」という事はないという事を、私は、文化住宅に住んでおる人が、あ~(きょうよう)を身に付けて、文化人達の(きょうよう)を身に付けて、おる、と言うそういうような、例えば、ことが出来る国家とか、私共にならせて頂いても、それでは一つも幸せはないということ、問題は中に住む人間その者の心なのだから、いかに文化的な、あ~住いに住んだり、文化的な(きょうよう)を身に付けたからというて、人間が幸せになるじゃない、現在の政治は例えば、そういう人間が、楽になるような、幸せ、そういうような事が、楽になるような事をですね、「幸せ」と言う風に思っとるけども、その根本、「それで幸せになる事じゃない」と言ったような、あ~、面からも今日の御理解説いてありますもんね。
私その「イデオロギー」という事を、字引で、二つの字引で、引かせて頂いて、大変くわしく分からせて頂いてから、いよいよ今朝の御理解は、「は~素晴らしかったのぉ」と頂くたんびに思うのです。と言うのは、え~、こういう事なんだそうです。
「人間の行動を左右する根本的な物の考え方」という、イデオロギーということは、だから私の今朝言っておることは、そういう事なんです。ね。「人間の行動を左右する根本的な物の考え方」の「体系」または、「観念形態」だと、お~、説明してあります。けどももう一つの字引には、あっもう一つ、「俗に政治思想」または「社会思想」とあります。ね、それからもう一つの字引にはですね、「観念論」または「感覚論」「空理空論」「観念形態」という風に、ある。私はこの「空理空論」という所を、ちょっとこう「イデオロギーという事は、空理空論だ、とは、ちょっとこくだなぁ」その説明が「ちょっと厳しいなぁ」という風に、高橋さんに、まあ、お話したことですけども、「先生これは哲学的見方だ」ととこう言われる、してみると、今朝の御理解は、哲学以上の哲学が説いてあるという事が分かりますね、ん、空理空論ですもの、現在のどういう素晴らしい政治家がでたり、どういう素晴らしい、あのっ、言うておること、あれも空理空論ですよ、だから私が、例えば、「選挙には行かん」と言いよる事が分かるでしょうが、ね、という意味で、においてですね、哲学的なその、お~、極めた言葉は、その「イデオロギー」というその言葉を、哲学的に見ると、空理空論だという事になります様にです、お道の信心をさせて頂いておる者がですねぇ「ありがっ、頂きました」と「おかげを頂きました」と、または、「風を引かせて頂きました」と、いう事がです、「風を引かせて頂きました」と言うて、もう寝付いておるならばですね、それはもう空理空論ですよ、あなたの「ありがとうございます」というのは、例えばなら今年のスローガンでのところの、「御用にたたしてください」という、切な願いという物がです、本当に切であるならね、風を引くはずもなかろう、風を引いたからと言うて寝る事もなかろう、と私は思います。これは、皆さんにだけじゃなく、私にも言っておる訳なんです。ね。本っ当に、素晴らしいか、御用というような事を、ね、「御用に使うて頂きたい」という念願を持ったら、風邪を引くはずが無いです、これはもう、御道の信心の、てっ、徹底論ですよ、言うなら、ね。よし風邪を引いてもです、「引かせて頂きました」と、本当に「引かせて頂きました」と引かせて頂いた事に対してです、「有り難い」とお礼が言え、言える、信心に成ったらです、これは、私が、長年の経験です、風邪引いて私が、寝込んで御用を頂かなかったという事は、一遍も無いです。それはやっぱり、ズグズグしたり、気分が悪かったり、せきが出たりしますよ、ね、けれども私が、御結界の御用をさぼったという事はないです、ね、ある御用に使うて下さってるです、ね、そしてやはり、気分が悪いから、寝る事も寝ますけれどもです、なら、その、「御用が出来ん」というような事はないです、だから私の、( ? )です、「風邪を引かせて頂きました」をもっともっと徹底して行く事、本当に、え~「世のお役に立ちたい」御用、「御用に使うて頂きたい」と念、念願が、もっともっと深刻にですね、本気で考えれる様になったら、風邪も引かんようになるだろう、よし引いたところで、もうズグズグもせんだろう、熱も出ないだろうと私は思いますですね。けれどもこれは、私の体験から、言えれる事は、なら、糖尿病だからと言うて、足が( ? )と言うてですね、これは私がここ10年あまりの体験からです、御用を、(?)と月波祭というごたっ時に足が立ちよったでしょうが、ね、( ? )座っとっるだけじゃから、この御用が出来よったでしょうが、それは、私が、そのなえておる事、その事をです、「はぁ、これは困った事じゃ」どういう事になって、「どういう事になってきた事じゃろうか?」と言うて、
あの~、言うておったら、もう、本当にあれは、半身不随ですよねやはり、こうやって向きが返られなかったんですからね、衣類的には、けれどもそれ、頂いておる所に、御用も結構にでけた、そして、現在、現在では、それが、御蔭を頂いておる、なら糖尿病においても( ? )です。頂いておるから、私は御用がでけてるんだと、ね、だから、勿論これはもうきりがない事です、いわゆる、その哲学的に、その、もっともっと深い意味合いにおいての、「頂きました」という事を、追求して行く事が、御道の信心だとも思います
。徹底論ですよ、やはりねぇ。だから、何か私今日はもう、本当にぃ~、じゅうしょく人位風邪の、「風邪引きで休んでおります」という御届を聞かせてもらってですね、なんか腹ただしい気がするんですよ、家でも、家内がもう寝込んでおるし、若先生が寝込んでおりますし、きみ子さんが寝込んでおるんです。今、高橋さんから聞きますと、ふみおさんも寝込んでおるそうです。秋永一家全部寝込んでおる、すぎおさんもどうもグズグズ言ってるっていう御届があったんですけれど、本当に合楽の信心をどんな風に頂いておるだろうか?というような気がするんです。これはしかし、お互いがもっともっと、てっ、哲理を持ってですね、私は信心を頂いて行かなきゃいけないと、「本当に風邪を引かせて頂きました」 と、頂く、「受けて立たせてもらう」という、そこにお礼が言えれる信心です、ね、そんなら、え~、これは、昨日の朝の御理解、その御理解ありま、ありましたでしょう、ね、「女が菜園に出て菜を抜く時、大地を拝むような心あらば、おかげになる。おかげがある」とおしゃる。「また、それを煮て食する時、神様いただきますという心あらば、あたることなし」と言う、あの み教えをですね、え~、その、他の、野菜だけの事じゃない、と言う、お~、意味で、頂きましたでしょ。ね、「お金をもうけさせて下さい」とこうて願うから、もうけさせて頂いた、まあそん時は大地を拝んで、え~、神様を拝んで、いうたかしれん、ところがそれを使う時にです、煮て食する時にです、自分が使いよるから、その金はかえって災いの元になるんだという様な意味だったんですかね、だから、その、それを使う時にも、自分のごたる、自分の金んごたる思いかたせずにです、「使わせて頂きます」と「神様頂きます」という心あらば、「あたることなし」と、もう徹底した頂き方、ね、そういう意味合いに置いてです、私は、あの、風邪引くという事も、やはりそうだと言うて、風邪の話し昨日の (?)しとりますがね、私御神前に出らせて頂いたら、あの~、大祭の時に私がたまくしあげるでしょ、( ? )がついた、あれがですね、もう~、一陣の風が、ブィーーーっと吹いてきたら、その、お~、それがもう、ちぎれるように、それがあの、こう~、榊に付いておる布と紙が、ですね、成っている所を頂いた、とうとうしまいにちぎれてしまった所を頂いたんです。そしてですね、「風邪引いたからと言うて、信心の方まで無くせんでもよかろうのに」 という事を、意味の事を頂いたんです、とくに、その、あの、言葉をわじらましたけれどもね、ね、風邪、風邪引いたくらいで、信心の方までぬきせんでよかろうとこ(笑)っち、もうそんな事もぬきする事必要無いの、実を言うと、この事は、今日は私は、何人かの人に今の事を申しました、時に、その時の言葉を私ははっきり申しましたけれど、ね、風邪引いたからと言うて信心までもお休みせんでもいい、良いのにと、今後の御信心しておらる、やはり、まあ、どこのはしからか、油断がでけた、風邪を引いた、という事になろうばってん、風邪引いたからとてです、引かせて頂いた事になればです、頂いた事になる、それば頂くまいとしとる、はぁ、風邪、もう、「引かんごと、引かんごと」と用心する事は、まだまだです、私も、ここ( ? )どうも風邪気味ですから、もう、もう体がゾワゾワするんです、だからもう風呂にも、何日も入らんで、まあ用心させて頂いとるますけれども、いよいよ「引いたな」という時には、私は頂くです。ね、これによって修行もさせて頂こう、ね、頂いたのだから、頂いたからには、大事にしなければならない、追い出そうとはしない、追い出そうとする、
風邪は追い出されまいとする、そこに、何日間も苦しまけにゃならん結果が生まれて来るんだというような、御理解だったですね、昨日のは、ね。全てを頂く、風邪引かせて頂いたと言いよるんじゃから、頂いたんなら本当に頂いたとして、有り難くお礼を申しあげとるんなりゃ、風邪の役目もすんだとして、風邪はすぐぬける、道理でしょうが、ね、また風邪を引かせて頂いたのですから、頂いとる事に対して、私は、御用が出来ない、寝付かなければならんという事は無いと、だから、そこん所をです、私共は相当分からせてもろうて、それを徹して行く事なんだ、なら私の、でも、厳密に言うたら、もっともっと、ね、世のお役に立ちたい、御用にも本気で、え~~、社会人類のために、ね、その、御用人としての、おかげを頂くためには、いよいよ、まめで、おかげを、こうむらなければならないと、いう願いがです、本当に切実になったら、私は健康に成れると思う。だから健康でないという事は、あなたはまだ、本当に、ね、お役に立ちたいとか、御用をお許し下さいとかという祈りというものが、まあだほんなもんじゃないと知らなきゃならんです、ほら、言わば、まあ、イデオロギーの空理空論という、これは、哲学的見方だ、と言うがです、御道の信心は、哲学的に見たらです、そういう事になるんですよ、「有り難うございます」と、言ってるんだから、「有り難うござい・・」「風邪を引かせて、ありがとう・」「有り難うござい・・」風邪を引かせて頂いて、おりますなら、頂いとるじゃけん、有り難うございますがいっつもともわなきゃいけないじゃないか、とその有り難うございますが本当に言えるようになったら、(?)こそ、そん場で言えます、いや、その病気をしておっても、御用には使うて下さいます、休み寝つかなならん事は絶対ありません、これは風邪だけの事じゃありません、だからね、そこの所を、真実だと、私共が知って、その真実に向ってです、一歩でも近づかせて頂こうというのが御道の信心なんですからね、そこに修行があり、教典の拝聴、み教えの拝聴が、ある訳なんですよね。 どうぞ。